↓↓↓最近、Googleマップでこのあたりの航空写真が見られるようになりました。中央の集落がメインの滞在地です。
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ここ数年のあいだ調査の対象としているふたつのモンゴル系の言語「シネヘン・ブリヤート語」と「ハムニガン・モンゴル語」は、 ともに中国の内蒙古自治区北部で使用されている言語です(シネヘン・ブリヤート語は上記地図中Bの網かけ箇所、ハムニガン・モンゴル語は地図中「ハイラル」と書かれているうちの「ハ」の字あたりを中心に使用されています)。ハムニガン・モンゴル語は「ハムニガン・エヴェンキ」と呼ばれる人々約1,300人に、シネヘン・ブリヤート語は「ブリヤート」と呼ばれる人々やハムニガン・エヴェンキ、合計約6,000人に用いられています。
このふたつの民族集団、ブリヤートとハムニガン・エヴェンキは、古くからこの地域に暮らしていたわけではありません。彼らの祖先はもともと、上記の地図のAのあたり、かつてのロシア帝国領内で平穏に牧畜生活を営んでいました。ところが1917年にロシア革命が起こり、ロシア帝国は内戦状態に陥ります。このとき、彼らの祖先は内戦から逃れて越境したのでした。移住後、当時の王侯によって現在の居住地域に暮らすことを許され、定住するようになったのだそうです。
亡命・移住は何段階かにわたっておこなわれました。1932年、いわゆる「満洲国」の建国による国境線の画定がなされるまでに約3,000人が移り住んだそうです。その移住時にまだ幼い子どもだった人々や、子、孫にあたる世代が現在のこの地に暮らしているというわけです。
移住をしたのはブリヤートやハムニガン・エヴェンキのうちの一部でした。現在でも地図中Aの地域には多くのブリヤート、ハムニガン・エヴェンキの人々が暮らしています。同じ民族集団がそれぞれ離れた地域で、そして異なる国家で暮らすようになってから約90年が経過したのです。その結果、ロシア領内に暮らす人々の言語と中国領内に暮らす人々の言語との間にも違いが生じてきました。
ブリヤートの人々が使用するブリヤート語の場合、その差異はとくに語彙の面で大きく目立つようになっています。ロシア領内ではロシア語が、中国領内では中国語が日常的に用いられています。そのため、それぞれの地域ではそれぞれの国家語の語彙が多く借用されたり、また会話の途中でロシア語(@ロシア領)や中国語(@中国領)に切り替わったりという現象が目立つようになっています。また、ロシア領内のブリヤート語は、キリル文字(ロシア語を書くときに使う文字)によって表記することができるのですが、中国領内ではその表記法は浸透しておらず、自分たちの母語を正確に表記する術を持っていません。
ハムニガン・エヴェンキの使用する言語はもっと深刻な差異が生じています。彼らはもともと、ハムニガン・エヴェンキ語とハムニガン・モンゴル語というふたつの言語を使用するバイリンガルだったと言われています。しかし、現在ロシア領内に暮らすハムニガン・エヴェンキの大多数は、このふたつの言語をどちらとも習得していないとみられています。中国領内でも母語話者は減りつつありますが、今もふたつの言語を使用する話者も残っており、村の中では彼らの母語で会話をする姿も見ることができます。
移住したことで別の変化を遂げたり、はたまた自分たちの言語を失わずに済んだり、その状況は異なります。そして共通する問題として、もともとの自分たちの言語を母語として習得する話者が減少しているという現状があげられます。しかし、移住したことも、また移住せずに残ったことで話者を急速に失ってきたのも、話者の減少を引き起こしたのも、いずれも彼らの自由意志によってなされたものではありません。大国に、大言語に翻弄されたことで引き起こされた結果なのです。とくに話者の減少については、もはや食い止めることはできないかもしれません。中国で、そしてロシアで生活していくためには大言語を習得する必要があるためです。
自分たちの言語を守るべきか、現状のままであるべきか、それに対して何か私が意見を述べるという気軽なことはできません。できることは彼らの言語の今の姿をできるだけ忠実に記述し保存していくこと、そしてこういった現象がある、他の言語とも共通するこういった特徴があるということを分析することくらいかもしれません。これだけでいいのかどうか、それは今もわかりません。そんな悩みも抱えつつ、できる限り調査地に向かっているここ数年です。